2011年5月6日金曜日

被災地視察・ボランティアの報告

5/3~5/4の2日間にかけて、東北の被災地へ視察、ボランティアへ行ってきた。
初日は宮城県北部から岩手県にかけてのリアス式海岸沿いをぐるっと、気仙沼・陸前高田を中心に視察。目の前に広がる瓦礫や鉄塊の山となった風景は、TVやネットで映像越しから観ていたもの以上に非常にショッキングなものでした。

特に陸前高田の自然に囲まれた農村地の被害は自分がみたなかでも一番ひどく、辺り一帯瓦礫の山で人の気配も感じられませんでした。

まだ捜索もおわっていないのだろうか…
ボランティアなど、応急的な処置はまだ介入できないような段階でした。


捜索終了の張り紙。

県立高田高等学校。ここは被災時に最上階まで水に浸かったといわれていて,被災直後に約100人ほど救出されたみたい。


つづいて気仙沼港周辺へ

港周辺とあまり広域を歩かなかったせいか、被害はあるものの復興に向けて少しづつ歩んでいるように思えた。
宮城県気仙沼市の大島と、気仙沼港とを結ぶフェリーは、もう運行を再開していた。やはり交通インフラの復旧は早い。

街の状況も、電気は通ってなかったが、道には現地に住んでいた人であろうか。
倒壊した建物から荷物を運ぶ人、道端で会話する人などがみられた。
おそらくどこかの学校(気仙沼女子高等学校など)に避難している人も、どうやら日が出ている間は元の場所に戻ってくるようだ。

写真は1層部分が層崩壊した建物

港周辺の写真。地盤沈下のせいか、いつも以上に海の水位が上がっている。


続いて石巻へボランティアへ。


NPO法人石巻スポーツセンター理事、松村さんの紹介で、西光寺という境内周りの泥を撤去するお手伝いをしました。
石巻は、前回(約1ヶ月前)にもY-PACerの一部の人たちがボランティアに参加し、そのときの様子から比較すると随分きれいになったそうですが、辺り一帯はまだ瓦礫が寄せられている状態。(ちなみに瓦礫を寄せて捜索が終了したエリアから順に、重機などが入って作業できるみたいなので、作業工程は進んでいる)

作業としては、スコップで泥を掘って運送用の一輪車で運び、1カ所にまとめるというもの。
ボランティアは我々のほかに宮崎県から来ていたスポーツクラブのおじさん達と一緒に作業。
宮崎から来た人たちは、去年起きた口蹄疫被害時にたくさんの義援金や寄付をして頂いた、ということで、今回いてもたってもいられず、わざわざ九州からボランティアへやってきたらしい。

辺り一帯は瓦礫の山で、すべてが津波でなぎ倒されてしまった風景。
しかしこのような心を痛めてしまうような風景でも、石巻市は、現地の子供たち、お寺の住職、そして全国からボランティアに駆けつけてくれる人たち。
そのすべてから街の活気が伝わってきて、不謹慎かもしれないけど自分の中では心温まるそんな瞬間に立ち会う事が出来ました。
この石巻の体験で、実際身体を動かしながら感じ取ること。考えること。
きっと街の視察のみでこの遠征を終えてしまったら個人的にしずんだ気持ちのまま、前に進んで行けなくなってしまったと思います。
今回こういう機会を提供していただいた松村さんには、改めてここに感謝の意を表したいと思います。



震災直後、建築に携わるものとして、建築構造という専門性を踏まえて、自分になにができるのだろうとずっと考えていた。
しかし実際現地へ行ってみて、まずは身体で直接実感することで、ようやく自分の中でこの震災に向き合うスタートラインに立つ事が出来たと感じた。
実際震災地の復興・応急的な処置は様々なタイムスパンや規模で行われていて
松村さんは、瓦礫撤去などボランティアの募集はここ1、2年は続くだろうとおっしゃっていたし
仮設住宅への入居も始まるだろうし
そのなかで自分がどの問題系にならフィットできるのか、をもっと冷静に判断しなくてはならないと思う。

そういった状況で建築的に何かできることはたくさんあると思う。
今回現地へ立ってみて、もう一度自分の考えを整理し、この震災に向き合っていきたいと思います。

PS:後に構造・技術的な視点で、別に文章をあげたいと思います。
ただし、もうすこし臨床体験を踏まえて書きたいとも思っているので、構造クラスタで一度ボランティアに行きませんか?
この件に関して何か意見下さい。よろしくお願いします。